(山田正先生の定年退職を機に寄稿文を作成しましたのでここに掲載いたします)
修練と成長の部屋 ~礎を築き、個性を伸ばす教育~
第十二期卒業・修了生代表 加藤拓磨(H17修了, H15卒業)
私は2002年2月から2009年11月の7年9ヶ月間(学部・修士・博士・技術員)とトップを争う山田研究室在室期間であり、長い間、研究室を内側から見てきた。12期を代表して同期との思い出と、私が印象的だった山田先生とのエピソードを紹介させていただく。
私たち12期は延べ16人が山田研究室に配属された。山田先生は今でもパワフルだが、当時50歳くらいの先生のエネルギッシュさ、厳しさは他学科にも轟き、山田研配属は軍隊に入るに等しいとまで揶揄されていた。自分たちも頑張らなければ、生まれ変わらなければと明るい未来への希望をもって研究室に入った我々だが、本音としては山田先生にご指導いただき、これまでの不真面目に過してきた人生を叩き直してもらいたい、そんな他力本願的な考え方のメンバーもいたと思う。
研究室に配属される前、私は2個上の武内慶了先輩の薦めで2002年度の研究室配属(学生150人以上の13研究室への割り振り)の調整役の学生代表を担った。研究室配属の担当教授が山田先生だったことから、私は先生と何度となく相談した。主体的に動き、山田先生と協議を繰り返し、何とか学生全員の配属が決まった。これにより山田先生に一定程度認められ、自分としてもこういったリーダー的な立ち振る舞いで一生食べていけるのではないかと自分に酔っていた。
しかし、研究室配属直後、山田先生は勘違いしている私のことを見逃さずに「学生のうちはノリや勢いでリーダーになれるが、最終的にバカには誰もついていかない。勉強しろ。」と1週間毎日30分以上説教をされ、何がイケないのかわからない私は枕を濡らした。最初は言っている意味が腑には落ちなかったが改心し、先生・先輩にいわれたこと、目の前のことを全力でやるようになり、今ならその意味がわかる。人格の再形成から始めるのが山田スタイル、全員が多かれ少なかれ性根を叩き直されていった。
辛い思い出といえば、夏ゼミ。お盆休み前の2日間まるまる使って、山田研全学生が研究成果をスライドでプレゼンをする。スライドの作り方、説明の仕方、研究方針の考え方等を山田先生より、ひとつひとつご指導いただいた。我々が学部4年生時、研究・プレゼンのイロハがわからず、山田先生にバッサバッサ切られ、サンドバック状態、何人も立ちながら、半分失神したものだった。
全員が山田先生に対して、恐怖心を覚え、第六感で山田先生が研究室にいるか否か、30分以内には酔っ払って帰ってくるかなどが、わかる能力者が生まれていた。感が鈍いものは酔っ払った先生に捕まり、他の学生のミスのせいで何故か自分が怒られるという惨劇が多々あった。山田先生という共通の敵がいることで学生の横の繋がりは軍隊以上のものになった。
山田先生に報告・相談する時間を確保するため、日程調整を任されている学生たちは先生の都合と機嫌が良さそうなスケジュール調整もするも、相談者が多い先生には不慮の来客があり、なかなか相談時間を確保できなかった。特に論文投稿締め切り間近になると、さらに時間確保ができなくなり、国交省関連の会議会場、早朝の東京駅、開館時間終了後の羽田空港などに参集し、説教をされたものだ。ある学会会場では夕焼けの中で20人以上の学生が他大学学生の面前で説教を受け、青春ドラマかよ、と思わせる場面もあった。しかし、この厳しいご指導が噂を呼び、山田研究室の学生が欲しいと多くの企業のリクルーターからお声がけをいただけたのだと実感する。
今思うと何に悩んでいたかも思い出せないが、一生懸命に駆け抜けた。日々の努力は物事を合理的、論理的に捉える思考を育み、武闘派と呼ばれる数多の現場に突入する研究生活を通じ得られた経験、大学に毎日泊まり研究に打ち込み得られた体力から一人前へと成長させていただき、卒業・修了を迎えた。
卒業・修了し、社会人になってからは、こんなに楽な仕事で給料をもらっていいのか、未だに疑問に感じるほど、研究室生活は厳しいものであった。社会に出てから、与えられた任務をこなすだけではなく、自らクリエイティブに企画・計画・実行ができる人間にさせていただいた。
私を含む同期12期のうち5人は技術員就任、博士課程進学、自主留年等の諸事情で研究室に残り、私においては30歳まで研究室にいた。最初に泣いていた私も強くなり、学部生に「加藤さん、山田先生にめちゃくちゃ怒られて、大丈夫ですか?」といわれ、私は「えっ、俺、いつ怒られていた?」という会話をした。日々、山田先生に怒られ過ぎ、怒られていることにも気づけないほど感度が鈍っていた。私が技術員になったとき、山田先生の代理で学生指導、会議出席をするようになり、私も指導者・研究者として、山田先生側の視線になってきた。そんな頃に山田先生(と私)に大きなミッションが与えられた。
そのミッションとは自民党の朝の勉強会における講師であり、結果として、政治と水分野の研究をつなげる大仕事であった。自由民主党本部では朝食を伴う国会議員による勉強会が朝8時から行われている。当時、自民党では水の安全保障に関する研究会を毎週行っており、山田先生は第10週のスピーカーとして招聘された。私は山田先生と、自民党本部前に朝7時待ち合わせ、大会議室に入ると、国会議員、秘書、党職員、関係団体、大企業社員、記者と思しき方など、大人数が参加されていた。最後に座長である故・中川昭一衆議院議員がいらっしゃると会議が始まった。
山田先生はパワーポイント20枚程度のスライドで水に関する国家的な課題について20分概略説明し、30分間程度の質疑応答の時間となった。質問のほとんどは中川先生がなされ、山田先生は的確な応答をされた。手前味噌ながらパソコン操作をしていた私は山田先生の話の流れから、用意した250枚のスライドの中から瞬時に選択し、そのサポートをさせていただいた。山田先生とシンクロしたゾーンに入った時間帯だった。朝9時半、党本部1階に当時あった喫茶店で緊張の糸が切れた二人はコーヒーを飲み、「今日は疲れたから帰ろう」と先生にいわれ帰ったこの日の思い出は今でも強烈に覚えている。
その直後、自民党の同研究会は水の安全保障特命委員会へと格上げされ、その中心メンバーとして山田先生は招かれた。同研究会は水問題のオピニオンリーダーを見つけることが主目的であったと理解している。そして、国内外の水の諸問題を解決することを目的とした水の安全保障戦略機構の立ち上げへとつながった。設立式となる第1回執行審議会は2009年1月30日、中央大学理工学部で森喜朗・元総理、水問題に関する専門家が一堂に会する中、執り行われた。同機構は研究で得られた真理が社会実装されるため現在も精力的に事業展開されている。この出来事は私が政治の世界に飛び込んだ理由となった。
山田先生の研究で、降雨レーダーは国土交通省・気象庁・防災科学研究所、民間企業との連携を促し、現在ではゲリラ豪雨情報をスマホで見られるようになった。ダムの事前放流は菅総理が自民党総裁選で縦割りの打破の象徴の実績として挙げられた。研究の果てに行政・政治を動かす山田先生を見本として、常に意識している自分がおり、小さなことでもいいので結果を出したいと思い続けている。
最後に山田正先生の定年退職を12期同期一同、心よりお慶び申し上げます。常に向上心を持ち、何事にも一生賢明な姿勢に私達も刺激を受けております。先生のご指導もあり、産官学政の全てが揃った個性あふれる最強の代となりました。不肖の弟子共ですが、山田先生への感謝の想いを持ち、各分野において少しでも社会貢献することで、恩返しとさせていただければと存じます。今後、尚一層のご活躍をお祈りしますとともにこれまでと変わらず、引き続きご厚情を賜りますようお願いいたします。